会議を終えて。SDGs達成に向けたヒントにもなる生物文化多様性のこれからの可能性。

Bio-Cultural Diversity-生物文化多様性。生物も多様なら、文化も多様であると当たり前のことを言っている言葉にも聞こえます。しかし深く考えてみるとこれはなかなか興味深いテーマです。生物文化多様性を深~く考えることで、第1回アジア生物文化多様性国際会議のまとめとして報告します。

 

1.文化ではなく生物が先に来る!

言葉の順序は大切です。この「生物文化多様性」という言葉は、生物多様性=生命の営みの本質的な姿とも言える生物の多様性が先に来ています。そしてその生物多様性を上手く賢く使い、継承し、人々の日々の暮らしに根付いた文化が次に来ることで、生命と同様に文化も多様になるというメッセージを引き出しています。

 

わざわざこのようなメッセージが価値をもつというのは、裏を返せば、生物も文化も多様性が失われつつあるという残念な現状と、自然を基盤に社会があり、その上に経済があるという当たり前のことが忘れ去られている現状があり、そのような現状が大勢を占めているからです。

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2.日本の風土や自然観にあっている

日本人はおそらく台風・地震・津波・火山などの激甚的な自然の振る舞いへのある種の諦観と、里やま文化と呼べるような人の手を上手く加えることで生産性を高めたり、自然林・二次林・農耕地など段階的に人の手を入れた場所に適度にアクセスし活用するという飼いならす/管理できるものとして自然の見方という、二つの自然観を共存させてきた民族なのかもしれません(程度の差こそあれ、人類のほとんどがそういう二つの自然観を共存させている気もしますが)。

 

生物多様性は、その文字面だけでは、”人為の介在なく”生物やそれらが他の物理的環境とも作用しながら構成する生態系だけを捉えているような狭い概念と勘違いされることも多くあります。生物文化多様性は、生物の多様さも人の手で育める(cultivate=耕す。cultureの語源)という自然観を言葉として捉えているように見えます。そのため里やま的自然観の強い日本だと、生物多様性が大事というより、生物文化多様性が大事という方が伝わりやすい気がします。(少なくとも食いしん坊な私は生物文化多様性の方がより守っていただきたい(守るものは同じものなのですが)と思ってしまう!)

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里やまの恵みを使った伝統的な料理の数々

 

3.生物文化多様性は、主流の社会システムと衝突する

生物文化多様性は、生物多様性と同様、主流の社会システムと衝突する概念だと感じました。ここで「主流の社会システム」という言葉で表現したいのは、均質化・基準化・単純化することで単一・短期に生産性や効率化をはかる社会です。多様性というのは本質的には長期的な変化に対して多様な可能性を保持していることでうまく対応できるという力を持っていますが、PDCAをまわすといった強い管理や効率化には不向きです。

 

例えば、生物文化多様性を考慮した農業(ある地域の風土に合わせ、独自の適応を果たした品種を使い、手間がかかる農業)は、単位面積あたりの手間の必要量・単位面積あたりの収量・機械的管理の導入のしやすさ、そして効率的流通・販売を考えたときに、現代農業システムからは低い評価を受けることでしょう。現代の農業システムは、収量が高く・安定的で、サイズ・形状も一定で、収穫時期に弾力性が高いものが良いとされているからです。

 

今回、生物文化多様性の重要性について認識を広めようという趣旨で石川宣言がまとまりましたが、生物文化多様性を阻害する要因・社会のルール(例えば、”良い作物の考え方”とか)を一つ一つ変えていかないと、生物文化多様性を配慮した社会は作れないのではないかと思います。そこまで意識した石川宣言であったかと言われると、素朴に素晴らしさの表現に徹した宣言であったように思います。とはいえ、第1回会合から主流のシステムを遠隔するぞといった合意を作るというのはありえないとは思いますが・・・。

アジア生物文化多様性国際会議

石川宣言採択後の様子

 

以上、つれづれなるままに考察を書き連ねましたが、社会の持続可能性を高めるには、人工物均質性よりも、生物文化多様性のほうが優れた概念であると思います。それをアジアレベルで訴えようという今回の会議は、SDGsの達成を唱っている国際社会に対して、社会を持続可能にするためのヒントを大きく提供した素晴らしい意義ある会議であったとおもいます。

 

主催団体の皆さま、ありがとうございました。

(公財)日本自然保護協会経営企画部副部長
国際自然保護連合日本委員会副会長・事務局長
道家哲平